『母の腕』

 嫁にいった長女が、昨年男の子を生んだ。長女夫婦は共稼ぎで町内に住んでいるので、こどもは昼間私だちが預かっている。ことし初めての誕生日がすぎて、二足三足歩くようになった。顔は額の四角いところが私にも似ているという人がいるが、これ以上似ることがないよう家中祈っているらしい。
 寝返りをうち、這いだし、そのうち炬燵の板につかまって立ち上がる。そんなこどもの日々に確実な成長の過程。一方、毎朝授乳の時間とミルクの量を妻に細かく指示して勤めにでて、夕方息せききって帰ってくる子をもつ母親の愛情。自分が子どもを育てているときにはそれほど感じなかったものが、孫をもつ身になって、なるほどこうなのかこうだったのか、いまさら納得しているのはおかしいといえばおかしな話である。
 私を生んだ母はもう三十年近く前に四十六歳で病死した。私が二十三歳のときだった。数年前墓地を改葬するため、母の墓を掘り返すことになった。私が畑でトラクターに乗っていると、墓掘りの人夫が「そろそろお骨がでますから立ち合ってください」と呼びにきた。私の家の墓地は家から一キロばかり離れた森のなかにある。わずか七戸だけの墓がある小さな淋しい墓地だ。墓地につくと、墓穴のそばにユンボと呼ばれる図体の大きい穴掘りの機械が停められてある。いまは墓穴さえ機械でほるのか、私はつまらないところで感心した。
「ここから先は手で掘りますから」
 人夫はシャベルを持って穴のなかへ飛び下りた。しばらくして木の根のように赤茶けた母の骨が、棺の腐った木片とともに穴の底にあらわれた。小骨は腐ってしまって、人夫がミカンの箱に拾い集めたのは、頭骨と手足の太い骨、それに少々の肋骨だけだった。地上に上げられたダンボールの箱のなかの数本の骨を、生きていた人間の形見としてはずいぶん頼りなくて淋しいものだなあと思いながら、私はしばらく眺めていた。長い火ばしのようなものが腕の骨なのだろう。それはかつて乳飲み子だった私を抱き、私に乳を飲ませた母の腕だった。
 父の仕事は転勤が多く、それに従って転校ばかりでは学業に差し障るだろうという理由で、少年時代私はずっと父の生家の祖父母に預けられてそこから通学した。だから母と一つ家で暮らしたのは十年にも満たない。
一歳から三歳の頃にかけて、私は九十九里浜の鳴浜という漁村に住んでいた。父はいつも留守で、海辺の小さい家で母と二人きりの生活だった。朝、床のなかで目を覚ましたときに、波の音が聞こえれば曇りが雨、聞こえなければ晴れと母に教わっていた。天候が悪ければ海が荒れるのは当然だが、どういうわけか私にはその曇りの日の記憶しかない。くる日もくる日も曇っていた。ねずみ色の重い雲が海にひっつきそうにたれ込めている浜辺を、母に背負われて通ったのを憶えている。
 日曜日、縁側の陽だまりのなかで、娘がこどもを抱いてしきりにあやしている。こどもはただころころわらっている。斜め向こうをむいている娘の首筋の、その細い首が死んだ母によく似ている。茶色い眼と細い首が母の特徴だった。娘が母だとすると抱かれている四角い額の男の子は私ではないか。
 母が賢くも強くもない女だった。田舎出の、無知で気の弱い器量の悪い女だった。あの浜辺の小さな家で、むずがる私をおろおろしながら、ただ哺乳動物の母性だけで必死に抱いていたのではなかったか。
 明るい秋の陽を浴びていながら、娘と孫をみているとだんだん私は悲しくなってくる。