『死者たちの道』

私の家は八街町の西のはずれにあり、長く連なる土手を背負って建っている。この土手は、八街の町の大部分が明治以前、徳川幕府の公領の野馬の放牧地で、柳沢牧とか小間子とか呼ばれていたころの名残であり、小型の萬里の長城のように、長々と続く土手が町の随所にみられるのは、広大な土地をいくつかの部分に土手で区切って、そこに馬を放していたらしいのだ。だが私の家の背の土手はごていねいにも五重になっている。土手と土手の間に馬を追い込んで、そこで馬を捕らえたのだとも云われている。牧場のありかでそのまま町の位置を決めたのだろうか、私の家の雨だれの落ちるすぐ後は佐倉市である。
町はずれに住む私は、町へ出るとき、なだらかな起伏をもって広がる畑地の中に点在する農家の間をぬって町へ向かう道を車を走らせることになるのだが、そのたびになんと曲がりくねった道だろうとおもう。蛇行なんて規則的なものではない。直線が続くとおもうと突然折れ曲がり、すぐまた理由もなく迂回するといった具合で、それでも町の方へ向かっている。
ここに最初、道をつけたのは誰だったのだろう。
道路に沿った位置にある農家は少ない。ほとんどの農家は道から多少の距離をもった場所にあって、「じょうぼう」という細い私道で道に繋がっている。どの農家も屋敷の周辺に風除けのためのかしやけやきの木が植えてあり、それらの木々がおとなの腕でもかかえきれないほどの大木に成長していることから
してわかるように、この辺の農家はここに住みついたころは近隣の村々の百姓から、「開墾、開墾」と多分に蔑称をもって呼ばれながら、ここに根をおろしてすでに百年近い歳月が流れているのだった。おそらく道は、この地が開かれたころに前後してつくられたものであろう。
こんなに道が曲がりくねっているところをみると、この道はけものみちだったのか、それとも最初は気まぐれなひとりの男がすすきの原っぱを偶然横切った足跡をなぞって、それがそのまま道になってしまったかもしれなかった。男は丘の上に見つけた一輪の百合の花を手折るために多少の迂回もしたろうし、そのころの空は碧すぎるくらいに澄んでいて、置物のような地平の筑波嶺に見とれたまま、そちらへ引き寄せられていったかもしれなかった。
例によってある日、私は部落の中の道を車を走らせながら、農家のけやきが大空に枝を広げているさまや、かくの葉が重々しく波うっているのを何気なく眺めていたが、ふと気がついたのは、私の知る限りでもこれらの農家の中で死者を出していない家はないということだった。どの家も死者を安置した部屋を持っていた。三十戸に満たない小さな私の部落でも、死者は百人を超えているだろう。それは、老いて亡くなった者のほかに、戦死した男、自殺した青年、病いにたおれた若い人妻や子どもたちであり、私はその多くの人たちと、限られた時間、部落での生活を共有したのだった。そしてつまるところ、かれらはこの曲りくねった道を右往左往しながら生涯を送ったのだった。
死んだ私の母も三十年前の夏、ぶかぶかのほこり道を、買い物帰りの大きな荷物を背負って汗をふきふき歩いていたことであろう。
母が死んで半年ばかり、私は同じような夢を何度もみた。それは人の気配がするので庭へ出てみると母がぼんやり立っていて、「なんだ生きていたのか、みんな心配しているのに」と私が咎めるように云うと、母はてれくさそうな笑いを浮かべていたが、そのまますっと消えてしまうという夢だった。
一年ほど前、我が家の三人の娘たちが朝食を食べながら話していた。
「ここへひょっこりほとけ様のおばあさんが帰ってきたら、おばあさんびっくりするでしょうね」
「そりゃ、びっくりするさ」
母は私が結婚する前に亡くなったので、妻も、もちろん娘たちのことは知らない。母が死んでから生まれた娘たちも、ほんとうに娘たちと呼べる年ごろに育ってしまった。
「おばあさんはまずおねえちゃんを指さして、この胴長で不細工な顔をした娘はだれだなんて聞いたりして」
「でも死んだおばあさんだって写真でみるとかなり短足だから、胴長には驚かないんじゃない」
「それは云えてる」
娘たちの会話はそこで終ったが、私はしばらく母がこの世に帰ってきた時の驚きに、想いを馳せていた。私の妻は私の従妹だから、親せきの小娘が台所に主婦としてどっかと坐っているのをすぐには理解しないだろうし、ましてや、私の今の母は死んだ母の妹で、自分の妹が自分よりはるかに年老いて、来客にお茶を入れているのをみたら、何が何だかわからないという顔をするだろう。
娘たちの会話に触発されたせいか、私はそれからかなり長い間、部落の過去の死者たちをこの世に招いてみたらという想いにとらわれていた。そしてある夜、わたしはこんな夢をみた。
私が部落を横切って町へ向かう道をひとりで歩いていると、遠くから大勢の人たちがこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。近づいてみると、それは部落の死者たちだった。かれらはまるで歴史の年表のように、古い死者から新しい順に整列して、ものも云わず行進していた。私は道の傍らに行列を避けてそれを見送りながら、二三の知り合いの顔をみつけて、声にならないような声で呼びかけてみたけれども、誰も見向きもしなかった。母の顔は見つけることができなかった。
夢のあと、私は夜半に目覚めて闇の中に眼を凝らしながら、いまみたばかりの夢を反すうしていた。しばらくして、私はまたまどろんだようだ。そのまどろんでいることにみずから気づいているようなごく浅い眠りのなかで、私はまた夢と空想の間にいた。
暑くも寒くもないよく晴れて空が透きとおった秋の日の午後、死者たちを公民館の裏の空地へ招いたらどうだろう。招待状を片手にやってきた死者たちは、受付で袋詰めの菓子と川田食堂の弁当が渡される。芝生の上にそれぞれ腰を下ろした死者たちを見届けて、主催者の区長の挨拶がある。
「みなさんは生前、部落の発展のために精一杯ご尽力されました。本日はたいしたおもてなしもできませんが・・・」
だいたい挨拶とはこんなものだ。次に来賓の町会議員の挨拶があるが、票にならないので熱が入らない。それでも死者たちは嫌な顔もせず、笑いながら聞いている。
宴会に入り、白いかっぽう着をつけた婦人会員たちが酒やジュースをついで回る。座はますます賑やかになり、死者たちの談笑は、遠くの森の中までこだましてゆく。
「なんだお前。みかけたことないと思ったらおれが死んでから生まれたのか。しかしおれより年とっているではないか」
「あの家にはかわいい娘がいて、この三人で夏の夜よく遊びにいったなあ。いまみたいに道は舗装なんてされてなかったから、道の真中に三尺も草が生えていて、いくら浴衣のすそをまくっても夜露で腹のあたりまでびっしょりだった。それでも懲りずに月夜の晩はあのころはやった ”カチューシャ可愛いや”のうたをみんなでうたいながら通ったっけ」
死者たちの話は尽きない。
やがて陽の沈みかけた頃、「そろそろおいとましましょう」という長老の呼びかけで、死者たちは立ち上がり、一団となって、部落を横切る道をゆっくり墓地の森へ向かって歩いてゆく。たばこ屋の角を折れ、林をくぐりぬけ、広々とした畑地へ出て、野の中の曲りくねった道をたどって丘の斜面を登ってゆく。この道はかつてかれらが米俵を積んだ荷車を押し、病気の子を抱いて医者へ走り、新婚の妻と鍬をかついで畑へ通った道でもある。
丘の頂上にさしかかった時、いつしかかれらの背は夕陽を浴びて金色に輝いている。
なかに私の祖父がいる。無駄口をきくのを何より嫌っていた祖父は口を真一文字に結んで歩いてはいるが、それでも生きていた時より柔和な顔をしている。その後を、去年たった四才で脳腫瘍のために天使のような姿のまま逝ってしまった本家のチビがちょこちょこくっついてゆく。大好きだったガンダムのおもちゃを右手にしっかり握りしめて・・・。
私の母もいる。母の制服のようであったカスリのモンペをはいて、かすかなほほえみを浮かべて歩いている。母に限らず死者たちは、現世の苦しみや悲しみから解き放たれて、皆おだやかで明るい表情をしているのだった。
道は丘を登りきると右手に大きく迂回しているが、左手から堀のように高い土手が伸びてきて道に寄りそい、ともに真直ぐ前方の森へ向かっている。死者たちの群は土手に守られるように、夕陽の残光をかすかに周囲に漂わせながら歩んでいたが、やがてそれは森の闇にまぎれていった。