『その年の暮』

 ふと物音を感じて、眼が覚めた。まだ部屋はまっ暗だ。しかも、直接外気に曝しているようにひりひりするほど顔が冷たい。五時半ぐらいだろうか。若い頃から不眠症気味のわたしは晩にはなかなか寝つけなくて、朝はだいたいこの時刻には眼が覚めてしまう。となりの床では、妻がまだ軽い寝息をたてている。妻を朝起こすのは、結婚以来、早起きのわたしの習慣というか役目になっている。しかしまだそれには時間が早いようだ。きょうはもう十二月十六日だ。人参の出荷は市場の都合で二十四日までにと農協からいわれている。急がねばならないが、この寒さでは畑一面霜柱で朝からは畑にでられまい。わたしは闇のなかで収穫の遅れている人参畑を思い浮かべていた。
 ぎいっ。天井裏で材木の軋むような音がした。乾燥した寒い日が続くと、この音がする。寒暖や湿度の度合いによって材木が収縮あるいは膨張して、継目から発する音なのだろうか。先刻わたしがきいたのはこれだったのだ。天井のうえに何か隠れているようだ。小動物の鳴き声にも聞こえるこの声を妻は気持ち悪がった。
「二十一日、何の日か覚えている?」
 昨夜、仕事場で人参の箱詰め作業をしながら妻が聞いた。
「わかっているよ。二十一日は夜、めしでも食いにいこう」
 作業場の半分、約十坪ばかりが板張りになっていて、さらに古じゅうたんが敷きつめてある。そこに人参洗い機で洗った人参が山積みしてある。二百グラム以上の大型の人参は、L、LL、3Lに分けてそのまま十キロずつ箱詰めにし、小振りのものは、MA、M、S、SSとそれぞれ五百グラムの小袋に入れ、一箱二十つめて十キロにする。夕方畑から帰ってから、九時、十時まで翌日の出荷のために夜なべ仕事をするのが、この時期、わたしの家に限らずこの辺りの農家の通例になっている。連夜の残業は体を苛めるのか、正月には体重が二、三キロ減っている。
 昭和三十七年十二月二十一日にわたしと妻は結婚した。わたしは二十五歳、妻は二十一歳だった。すでに三十一年経っている。しかし、そんなおしつまった頃に結婚式を挙げた理由が、わたしも妻もよくわからない。自分は年が明けてからと思っていたのに急がされたのでと妻はいうが、わたしにはそんな記憶はない。妻の母とわたしの父は姉弟で(つまりわたしたちはいとこなのだ)、二人が当事者にも相談せずに話し合って決めたのだろうが、二人とももういない。その頃は一面の落花生畑で、人参なんて栽培する家はなかったから、暮れのこの時期は案外ひまだったのかもしれない。
「去年の結婚記念日にはどこへいったっけなあ」
 わたしは箱のふたをボクサーでどじながらいった。
「何よ調子いいこといって!忙しいから別の日にしようとか、雨だから億劫だとか、うっかり忘れちゃったとか、いまだに一度だって食事になんかいったことないじゃない!」
 妻は人参をつかんだ手を止めて、笑いながらも怒ったようにいった。
「よし、ことしは忘れずに [ステーキ宮] へ行って最高のステーキを注文しよう」
 朝起きて、洗面所の窓から外を覗くと、畑には思ったほど霜はなかった。わたしと妻は朝食もそこそこに畑にでた。
 トラクターにつけた掘り取り機で人参畑のうねなりに、人参の下の土中を刃を通してゆく。葉を持って引きぬいた人参を横に並べる。小刀で葉を切り落とした人参はコンテナーに入れて、軽トラックに積んで家に運ぶ。その一連の作業のなかでも、葉を切る仕事は手間がかかり、二十キロあまりもあるコンテナーをトラックの荷台に積み上げるのは、男のわたしでもかなりの重労働だった。防寒の厚手のジャンパーがうっとおしくなるほど、わたしは仕事に熱中していた。
 十時近くになって、そろそろお茶にしようかという時に、母が畑を横切って急ぎ足でやってくるのが遠くに見えた。何の用だろう、履物が汚れるだろうに。わたしはいぶかしく思いながら立って待っていた。小走りに近寄ってきた母はいきなりいった。
「大変だよ!今電話があったんだけど、沖渡の叔父さんがけさ急に死んじゃったそうだよ」
「どうして、また!」
「電話じゃくわしいことはわからないよ。とにかく早くいってみたら!」
 わたしも妻もしばらく無言でつっ立ったままだった。 
「おれは急いでいってみる。おまえは掘った人参をかたづけてあとからこい」
 八街は卵の黄身のように真ん中に市街地があり、周囲を農村地帯が白身のように取り囲んでいる。叔父の家はわたしの家から見ると黄身の向こう側にある農家だが、わたしは市街地の混雑を避けるために、黄身の部分を迂回して車を走らせた。もう死んでしまっているのだ、あせっても仕方がない。自分に言い聞かせながらも、長い信号にじれた。
 叔父の家の庭にはすでに十、四五人の顔見知りの人たちが集まっていて、二人、三人と寄って声をひそめて話している。あまりに唐突な叔父の死が理解できないというように、首を傾げているものがいた。いったん病院へ運ばれてすぐに返された叔父は、顔に白い布をかけられて奥の部屋に安置されていた。
 叔父は朝食のあと、息子とこたつで将棋を指していた。王の頭にはられた香車をみて、おれは困ったなあ、とぼやいたとたん将棋盤にうつぶしてしまった。息子に抱き起こされたときにはすでに意識はなかったっという。死因は心筋梗塞。享年七十五歳だった。
 平凡な農夫にすぎなかった叔父の唯一の趣味は将棋で、わたしが用事で訪れると、一番指すかといってかならず将棋盤を抱えてでてきた。若い頃は歯が立たなかったが、最近は叔父の手を覚えてしまって、わたしは負けたことがなかった。叔父の攻めてくる場所に、強力な駒を集めて待っている。攻め込んできた叔父はいとも簡単に返り討ちにあって、もう一番、もう一番といって悔しがった。
 叔父の死に、わたし達は驚いてばかりはいられなかった。お寺や葬儀屋に連絡しなければならなかった。葬儀は自宅で行うのが普通だから、まず葬儀屋が祭壇をつくりにくる前にタンスなどの大型の家具を部屋から出して、周辺のゴミや埃を掃き出さねばならなかった。
 その日の夜は親戚の者だけのお通夜。翌日の晩は町内会と一般の人たちのお通夜、三日目の十二月十八日の葬儀と続いた。いよいよ棺に釘を打つときになって、叔父の娘たちが叔父の顔を手のひらでさすって泣いた。わたしが死んだら、うちの娘たちもこうするのだろうかと思って、わたしはみていた。将棋の駒も棺に入れられた。全部揃っているか、一つ足りなくても、もう取りにこられないからな。誰かが冗談ともとれることをいった。
 翌日も四十九日の法要があり、妻は叔父の家へでかけていった。
 明けて二十日は妻は朝から忙しかった。この日、次女の婚約者が初めて我が家にくることになっていた。庭掃きをしたり部屋を片づけたり、花を活けたりで、自分のことのように張り切っている。わたしも妻もまだ娘の相手の青年に会ったことがなかった。娘と青年は話し合って結婚を決め、この日はわたし達夫婦の了解をとりにくるというのである。親同士の話で結婚を決めたわたし達の場合と逆の話だった。いまさら反対したって仕方ないから会わなくたっていいよ。わたしはいったが、それではあんまり無責任に過ぎるだろうか。わたしはこどもの日常生活は面倒みるが、こどもの人生で大事なことはこども自身に決めさせたいと思っている。これが良いか悪いかわからない。だがいつか娘三人でこんな話をしたという。わたし達は誰も親を頼ろうという気持ちが全然ない。親に特別なことを教わったつもりはないけど、こういうふうにこどもを躾けたことだけは、見習わなければならないね。
 娘の婚約者は酒を飲まず、甘いものが好物だという。作業場にいたわたしのところに、街までいってケーキを買ってきてくれと妻が頼みにきた。肥満した青年の分厚い手のひらが想像されて、わたしは嫌な気持ちがしたので、おまえが行ってこいとことわった。まもなく現れた婚約者は私の想像とは反対に、痩せて長身の青年だった。旅行会社の営業マンとかで、よく話しよく笑う青年だった。お嬢さんと結婚させてくださいと青年はいって、わたしはだれにも迷惑をかけなければ異存はないと答えたが、月並みだったかなとあとですこし後悔した。
 二十一日、わたしと妻は朝早く人参畑にでた。遅れている収穫作業を少しでも取り戻さねばならなかった。仕事に夢中で、二人とも結婚記念日はすっかり忘れてしまっていた。