『繋がれた葡萄たち』

「早く支度しないか」、と松男は洗面所の扉を少し開けて妻の正子に云った。
「どうしてこんなに、フケが多いんだろう」それでも正子はいらだつように云って、髪を洗うのを止めなかった。
 松男の所属するT村野菜出荷組合の新年会が、一月の末になって開かれることになった。野菜出荷所に午後一時半までに集合、その時刻に会場である隣町の中華料理店からの迎えのマイクロバスが来るとの連絡があったが、正子は一時を過ぎてもまだ髪を洗っていた。村はずれの集荷所まで、車で十分はみなければならない。松男は気が気ではなかった。
「私たちって、ほんとにつまらないところでいとこなんだから」
 頭にタオルを巻いて、ようやく正子は洗面所から出てきた。松男と正子はいとこ同士の夫婦で、正子は髪を洗うたびに、自分が夫に似てフケ症なのを嘆くのだった。二人はいくぶん茶色がかったトロンとした大きな眼を、姉妹であるそれぞれの母から受け継いでいた。
「兄弟だか、夫婦だかわかりゃしないよ」結婚したての頃、魚の行商人にからかわれたこともある。それに音痴もまた、二人の共通点だった。ときおり、正子はテレビの歌番組の歌に合わせてうたったりするのだが、とてつもなく甲高く、しかも調子はずれの声が喉から絞りだされでくるだけだった。
 松男と正子が集荷所に着くと、すでに迎えのバスが来ていて、まわりに中年の男女が群がっていた。複雑な色で塗られたしかも古ぼけたバスを見て正子は、「ラーメンのどんぶりみたいなバスね」と云った。野菜農家は冬でも忙しい。そのせいか、女たちの額や頬は赤く日焼けしていた。女たちの何人かはいましがた美容院から出てきたばかりで、髪ばかりが新しく、それがよけいに赤茶けた皮膚を強調していた。男たちは一張羅の背広を着て、なかには床屋へ行って、頭を刈りあげている者もいた。何かあると、背広を着たり床屋へ行ったりするのが、彼らの習い性になっている。
 会場の中華料理店の広間に着いた時には、すでに予定の時刻を過ぎていた。組合長の形通りの挨拶もそこそこに宴会になった。酒が一回りして落ちつくと、はやりのカラオケが始まった。司会役の男に名前を呼ばれた者は、てれ笑いをしながら部屋のすみの小さなステージに登ってゆく。
「次に正子さんどうぞ」
 赤茶けた刺身に箸をつけていた松男は、驚いて顔を上げた。妻の名を呼ばれたから驚いたわけではない。司会者は歌えない者を儀礼的に名指しして呼ぶ場合と、歌の好きな者に軽く順番をうながす時では、やや声の調子が違う。松男にはどうも後者のように聞こえたからだった。正子を見ると、正子はセーターのすそを引きおろすようなしぐさをしながらゆっくりと席を立ち、松男の前を通りすぎでステージに向かって歩いてゆく。松男は思わず正子に声をかけた。
「おい、おまえまさかうたうんじゃないだろうな」
「うたうのよ」
「ほんとうにうたうのか」
「うたうわよ」
「ここまで来て家の恥をさらすことはないだろう。どうしてもうたうなら離縁だぞ」
「なに云ってるのよ、慰謝料もないくせに」
 正子と冗談を云い合いながらも、松男はすっかりうろたえていた。ステージに上がった正子は、小さなマイクを馴れた手つきで軽くつまむと、客席に向かってにこやかな笑顔でお辞儀をした。正子の友人たちが、正子のカラオケは歌は下手だけど度胸は満点と評していると松男はあとで聞いたが、まったくその通りのしぐさだった。
 二年ほど前、組合員の妻たちが集まってカラオケ愛好会ができ、毎週土曜日の晩、公民館で練習を続けていた。正子ははじめ、「わたしは歌は駄目だから」と参加を断っていたが、去年の夏ごろになって、「ひとりだけ入らないのは仲間はずれみたいで嫌だし、うたわなくともお茶を飲みながらの世間話が楽しいんだって」と結局会に入ることになり、練習日には夜半すぎに帰ってくることもあった。性格的には松男より陽気でおだてに乗りやすい正子は、みんなに勧められてすっかりその気になり、松男には内証で歌の練習をしていたらしい。
 前奏の音楽が鳴りだすと、正子は全身を揺らし、右足で床を踏みならすようにして、拍子をとっている。その大袈裟な身ぶりを見ているうちに、松男の体内で、耐えられない羞恥心がアルコールと一緒になって猛烈な勢いで回り始めた。全身がほてり、身の置き所のない恥ずかしさだった。妻の正子が大勢の人の前で、裸体をさらしているのを見ているような恥ずかしさだった。
 松男には、かつて二歳下の弟がいた。小学生の頃から容貌に劣等感を持っていた松男は、その弟が自分に「よく似ている」と云われるのが嫌で、学校では他人を装っていた。また弟は生まれつき心臓に欠陥があったせいか、動作が緩慢で、よく他の生徒のいたずらの対象になっていたようだ。ある日の休み時間に松男は、弟が背中に「のろま」と書かれたワラ半紙を張りつけて校庭を歩いているのを見た。後ろに二、三人の子どもが口に手をあて忍び笑いをしながらついて歩いている。松男は駆け寄ってワラ半紙を引きはがそうと思ったが、勇気がなくてそれができなかった。
 正子の歌を聞きながら、松男はその時と同じ体が熱くなるようないたたまれなさを感じていた。
 気がつくと、松男は部屋を飛びだしていた。正子の歌が聞こえないように、廊下を走り、一気に階段を駆け上がった。走りながら松男は、自分も何か恥をかきたいと思い続けていた。それは弟が中学生になる直前に急死したときの、自分もまた弟と同じ張り紙を背中につけて、一緒に校庭を歩くべきだったという松男の痛切なおもいにつながっていたかもしれない。分身である妻が恥をかいたならば、自分もみずからの体にナイフを刺すような強烈な恥をかくことで、妻と一体になりたいと思った。だが松男はいますぐここで恥をかく手段を思いつかなかった。
 松男は去年の夏知り合った、団地の女サユリに電話してみようと思った。サユリは松男が最近しきりにこだわっている彼の恥の実体を、陽にさらすようにあからさまに指摘したことがあった。電話でもいいから、松男は自分の恥を再確認しようとしたのだ。廊下の赤電話からダイヤルしたが、サユリは留守だった。松男の記憶にある、いくつかの白い家具の並べられたサユリの部屋の無人の空間に、呼び出し音が細かく刻まれて散らばってゆくのを、受話器の底のうすい鉄板が伝えていた。
 新年会の席に戻ってみると、すでに正子の歌は終わっていた。隣の席の女が松男のコップにビールを注ぎたしながら云った。
「どこへ行っていたの、おくさん上手だったわよ、あなたもうたいなさいよ」
 松男は笑って首を振った。
「あなたたちいとこ同士で血が繋がっているんでしょ。あなたもうたえばきっとうまいと思うわ」
 そこへ別の女が話に割り込んできた。
「ねえ、いとこ同士の結婚って最初困るんじゃない。だって花嫁が妹のようでも困るし、姉さんだったらもっと困るでしょ」
「近親相姦とでも云うのかい」
「そこまでは云わないけど、でもあなたのおくさんはこどもの頃、母親が交通事故で入院したとき、あなたの家に預けられて、一年もあなたと一緒に生活したんでしょ。おくさんはよく云ってるわ。この家に二度嫁に来たような気がするって・・・」
 それは事実だった。
 松男は正子が家へ嫁入りした夜のことよりも、正子がまだ小学校二年生の春、ひとりで母の生家である松男の家へやってきた日の姿をより鮮明に記憶していた。学校から帰って日課の庭はきをしていた松男は、小さな風呂敷包みを抱えた女の子が臆するふうもなく、自分の家のような顔で彼の家の長屋門をくぐってくるのを見たのだった。
 その日、正子は初めて松男の母と一緒に風呂に入った。風呂を出ると絣の寝まきに着かえて、居間で寝ころんで本を読んでいた松男の前に小さなひざ小僧をぴったり揃えて坐った。正子の手には家から持ってきた赤い櫛が握られていた。正子は毎晩風呂上がりに正子の姉が髪を梳いてくれたように、松男が当然それをしてくれるだろうと何のためらいもなく期待して、松男の前に坐ったのだった。こけしの頭のようなおかっぱの髪を梳きながら当時四年生だった松男は、この女が将来自分の人生に何か関わりを持つのではないかと予感したのを、今でも覚えている。
「ねえ、ねえ」
 女のひとりが松男の脇腹をつつきながら、急に卑猥な顔つきになって云った。
「いとこ同士の夫婦って、汗の匂いまで同じなんでしょ」
 松男が村内の団地に住むサユリと知り合ったのは一年ほど前だった。
 松男はその日村はずれの雑木林の中の道を軽自動車を走らせていた。もう何年も通ったことのない道は、雑木林の丘と丘の谷間を曲がりくねって続いていた。走りながら松男は、舗装されたその道から別れて、雑木林の中へ砂利の敷かれた新しい道が造られているのに気がついた。次の瞬間、松男の両腕は松男の意思とは無関係にハンドルを切って、車はその砂利道へ入っていった。小学生で自転車に乗っていた頃から、松男は見知らぬ新しい小道に出会うと、どこまでもそれをたどってゆく妙なくせがあった。
 松男のポンコツの軽自動車は白い排気ガスを吹きだしながら、雑木林の道を勢いよく登っていった。しかしそれはほんの一分に満たない短い時間だった。松男の車はたちまち雑木林のトンネルをくぐり抜けて、途方もなく明るい視界の中に出た。丘の頂上の林と土が見事に削りとられて、だだっ広い平面があり、そこに住宅団地が造られていた。雑木林の天井は街の上だけくり抜かれて、青い空が嵌め込まれている。
 そこが友人たちの話題にしばしばのぼっているT団地であることに、松男はようやく気がついた。このあたりは隣町のJR駅に近く、その地の利からここに住宅団地が造られたのだろう。
 松男はエンジンの音を落として、ゆっくり街の中へ入っていった。家は百戸ぐらいあるだろうか。街の家々は、教会のように尖った屋根であったり、家全体が輝くばかりの白いペンキで塗られていたり、レストランのようにガラスの壁で囲まれていたりして、松男の知っている村のどの家よりも瀟洒で垢ぬけていた。だが、不思議なことに街にはただひとりの人の姿も見えなかった。狭い庭にわずかな洗濯物を干してある家があって、人が住んでいるはずなのに、街の中だけ舗装された大通りは虚空につながるつきぬけた明るさで、ひっそりと人の影はなかった。
 車を走らせてゆくと、街なかの道はかなり曲者だった。大通りが突然行きどまりになって仕方なく脇道にそれると、細い道は何度も屈折し、気がつくとまた元の位置の大通りに戻っていた。何度目かの行きどまりに出会って、松男は車をバックさせようとして窓から顔をだすと、五メートルと離れていない家のシート張りの車庫の中で、三十前後の女が四人ほどテーブルを囲んでお茶を飲んでいるのが見えた。女たちは松男の姿を認めて、次々に叫んだ。
「あんたセールスマン?」「何も買わないわよ!」「ここは昼間は男子禁制だってこと知らないの!」
「いや、違うんです。まいごになっちゃったんです。どっちへ行ったらこの街から出られるんですか」
「まいご! まいご!」
 ひとりの女が囃したてるように云うと、女たちはどっと笑った。たしかに中年の男にまいごという表現は適切ではなかった。
「私が教えてあげるわ」
 細面で、しかも眼ばかり大きく目立つ女が松男の車に近づいてきた。女は顔が痩せているわりには、体の線は豊かだった。まるで女教師が生徒を𠮟りつける時のように彼女は両手を腰にあて、あごを動かしながら道すじの説明を始めた。運転席に坐ったままの松男は、ちょうど眼の高さにある彼女の乳房が顔の動きにつれてその方向に揺れるのを、見るとはなしに見ていた。どうやら松男のめざす街の出口は、彼女の右の乳房の先端の延長線上にあるらしかった。
 説明が終わると、彼女は声を低くして云った。
「来週の月曜日の午後、私の家へ来ない?毎週月曜日にはあの人たち子どもを連れてK市のスイミングクラブへ行くの。私の家はこの団地の南のはずれ。門のそばに大きな黒い犬がいるからすぐわかるわ」
 約束の日に松男は彼女の部屋にいた。八畳ほどの部屋に、背の高い鏡台、テレビ、サイドボード、本の少ない本棚などの家具がお座なりにおかれていて、鏡台のほかはあまり使われている形跡がなかった。全体に白っぽくて生活感のないその部屋の雰囲気から、娼婦が住むとしたらこんな部屋ではないかと、松男は思った。
 彼女は大きな眼を凝らすようにしてソファに坐っていた。そして自分の名をーーサユリであると名乗り、小学生の娘と二人で暮らしていると云った。その娘の通う小学校のPTAの役員である松男の顔をサユリはすでに知っていて、最初から松男に馴れ馴れしかったのはそのせいだった。
「学校にはあまり行かないけれど、会長さんの顔ぐらい覚えているわ。それからみんな噂していたわ・・・。あなたのおとうさんが来年の村長選挙にでるんだって・・・」 松男の家は村では何代も続いた旧家で、地主だった。また松男の父は二十年近くも村の助役をつとめていた。息子である松男の顔も名もよく知られていた。
「あなたも、あなたのおとうさんも、この村で生まれてこの村で育ったんでしょう?」
「祖父も、もっとずっと前の先祖までそうだったとおもう。だから分家、分家で村の中に親戚がいっぱいあるんだ。もっともそれは私の家に限ったことではなくて、村のどの家もそうなんだ」
「この村でうっかり人の悪口を云えないというのはそのことね。どの家も網のように繋がっているのね。私の友だちが云ってたわ・・・。この村の人たちはぶどう棚のぶどうと同じだって。つまりぶどうは別々にぶら下がっているように見えても、棚の上の蔓は一本なのよ」
 松男と正子がぶどうだとしたら、いとこであるかれらは最も近い蔓についているぶどうだった。二人には同じ樹液が流れているのだ。
「こんな所に街ができているなんて知らなかった」
「この街は村の中では異国なのよ。言葉も習慣も村の人たちと違うから、たがいに溶けあうことがないのね。私たちはいつも好奇な眼で見られていて、村の人たちの話の輪に入ってゆこうとすれば、あの人たちはとたんに口をつぐんでしまう。私たちは異邦人なのよ。でも村の人たちのように納豆みたいにベタベタくっついて暮らすのは好きでないから、村よりこの街の方が私の性格に合っているわ」
 松男はサユリのいくぶん投げやりな口調の話を聞いていいるうちに、自分の妻を含めた村の女たちとは、はっきり違う種類の女であることを感じた。村の女たちはよく飼い慣らされて群れている羊のようだった。仲間たちの知らない言葉を口走ったり、群れを離れて勝手に行動したりはしなかった。それにくらべてサユリは、体を風雨にさらして単独で餌を漁り歩く野生のけものの凄さがあった。
「私、父の仕事の関係で幼い頃から日本中をほっつき歩いて小学校を十回も転校したぐらいだから、放浪癖が身についていて、一ヵ所に住みついて土着の人間にはなれそうもないわ。いずれ、この家も売ってどこかへ行くつもりよ」
 家を売る!
 その言葉は松男の胸を衝いた。村には太い柱と梁で作られた、そしてなかには部厚いカヤ葺の屋根を載せた家々が、百年余りの歳月を経て建っていた。本家は分家をしたがえ、分家はそのまた分家をはべらし、それらは村の所定の位置にきっちりおさまって、決して売ることも移ることもない家々だった。サユリはそんな松男の驚きに気づくはずはなかったから、ゆっくり話し続けていた。
「住む土地ばかりじゃない。私は男にも移り気なのよ。三年一緒に暮らした夫は平凡で普通にやさしい男だったけど、たいした理由もなく別れてしまったし・・・」
 それからサユリは自分の「恋愛」の話をした。銀行員、大工見習いの青年、八百屋の主人、それらの男たちとの情事のいきさつを、きのう観た映画の話でもするように松男に話して聞かせた。
 村では男と女が結びつくためには、面倒で複雑ないくつもの儀式を必要としている。
「よく次々と相手が見つかりますね」
「これでもK市の盛り場を歩けば、まだ声をかけてくれる男がいるわ」
「きみのそんな自由がうらやましいよ」
「あら、あなただって私を抱いてもいいのよ」
 一瞬、松男は言葉を失った。が、まもなく悲鳴のような口調で云った。
「そんなこと、できるわけないじゃないか!もしそれが誰かに知れて村中の噂になったら、PTAの役員は辞めなければならないし、親父の選挙にもさわるだろう。村中に散らばっている親戚にも迷惑をかけることになる」
「世間体が気になるというわけね」
「世間体なんてなまやさしいものじゃない。村の人間はこの土地に何百年も群れて生きているんだ。仲間を裏切ることはできやしない」
 出荷組合の新年会が終わって間もなく、正子は松男にカラオケ発表会に出場してよいかと相談してきた。発表会はここ三年ばかり、村の中央公民館で百人前後の参加者を集めて開かれているもので、正子のグループは早々と全員参加を決めていたらしかった。だから正子は、松男に相談する必要はなかったのだ。
 松男には以前、参加を申し込んだのに出場しなかった、といういきさつがあった。会の実行委員の男に出場を誘われて曖昧な返事をしたところ、その男は早とちりしてプログラムに松男の名と適当な曲名を印刷してしまったのである。もともと出る気はなく、またその日はPTAの役員会と重なってどっちみち出られはしなかったが、気になって会議が終わってから会場の公民館を覗いてみた。
 テレビの歌謡ショウのようなものを想像していた松男には、会場の様子はいささか勝手の違うものだった。
 千人近くも入る公民館の大ホールはうす暗く、舞台の中央に小さなスポットライトがあてられていて、そこだけがわずかに明るい。「第四回カラオケ発表会」の白い垂れ幕のほかは何の飾りもない。観客は百人たらず、それも老人ばかりである。司会の男は無駄なことは一切しゃべらず、無表情で、機械的に出場者の名を呼びあげると、まるで流れ作業のように中年の男女が舞台に現れ、歌が続けられてゆくのだった。それはなにかの儀式のような光景だった。
 男たちは申し合わせたように背広を着ていたが、女たちも揃ってジャンパーを着てズボンをはいていた。それは、歌手でもないのに特別に着飾るのはおかしいから普段着で、という発想によるものだろうが、すくなくとも舞台で歌をうたう衣装としては適当とは思えなかった。そのくせプロの歌手のように、うたう者には観客から必ず花束が贈られるのも奇妙だった。
 松男は出場者たちを眺めているうちに、彼らは歌をうたっているのではなくて、面接試験を受けているのではないかとも思えてきた。試験官は観客の老人たちである。老人たちは出場者が舞台に現れるたびに、歌の巧拙と一緒に彼らの血の流れを確かめているのだった。
ーーあれはどこの女だーーどこから嫁に来たんだーーほらМ家の分家からーーじゃあ、Sの惣領娘だなーーうん、Kの嫁とは姉妹だ。
 こんな会話が客席で一瞬にして交され、歌い手の素性が知れると、老人たちは安心して歌を聞き始めるのだった。
「では次にーー松男さんにお願いします」
 ふいに司会者が松男の名を呼びあげた。出場は断っておいたのに、プログラムはまだそのままになっているらしい。司会者はすぐ引っ込んでしまったので、舞台のスポットライトの中は無人で、そこにあるべき松男は客席のうしろの暗がりで身動きもせず立っていた。
「ーー松男さん、おりませんか」
 また松男の名を呼ぶアナウンスがあった。会場に軽いざわめきが起こり、あちこちで松男の名がささやかれていた。本人は実在なのに、その本人の前でその不在が確かめられているのは奇妙な気分だった。松男は、自分はもうこの世にいないのではないかと思った。もし死者に聴覚があるのなら、自分の葬式の日は棺の中に身を横たえて、参列者たちが自分の名を呼ぶのをこうやって聞いているのだろうかと思った。また松男は子どもの頃、自分の家で自分の葬式が行われているのを、庭の欅の大木の枝に腰かけてそれを眺めでいるという夢をみたことがある。白装束の四人の男にかつがれた松男の棺は、喪服の女の長い行列を引いて松男の足の下を通りすぎていった。
 発表会の日が近づくと、正子のカラオケ練習は二日おき、一日おきと頻繁になった。ある日正子は云った。
「去年まではみんなゴムのズボンでうたってたそうだけど、ことしはセーターとスカートにすることにみんなで決めたの」
「ゴムのズボンって、まさか防水のズボンのことじゃあないんだろう」
「違うのよ、モンペみたいにウエストにゴムの入ったズボンのことよ」
「去年はみんな花束を貰っていたけど、おまえに花束をくれる人はいるのかね」
「ああ、それならだいじょうよ」
 正子の説明によると、花束贈呈といってもグループでひとつだけ買った花束を出場順にリレーしてゆくだけなのだという。
「何となく似ている」
 松男はつぶやいた。それは松男が観た映画の一シーンだった。
 東北の漁村の寒々とした砂浜で、黒い着物を着た老婆たちが十人余り輪になり、土俵のような大きな数珠をみんなで支えるように持ち、それを回しながら、大声で念仏を唱えていた。松男は頭の中に、老婆のかわりに村の女たちを思い浮かべてみた。
 村の女たちが持っているのは数珠ではなく、ハワイのレイを大型にしたような花の輪だ。そして念仏のかわりに彼女たちの大好きな演歌をうたわせるのだ。正子が今度の発表会でうたうという「だんな様」の歌でもいい。
  がまんしている背中をみれば
  男らしさに涙が出ます
  わたしの大事なだんな様
 その輪をぬけることは、誰も許されなかった。
去年の秋、松男はサユリと会ったことがあった。待ち合わせた時間に松男は団地の入り口の道でサユリを車に乗せると、一目散に村の外へ向かって走りだした。
「どこへゆくの、まるで逃げてゆくみたいね」
「できるだけ遠くへ行きたいんだ」
 一時間たって、車は海沿いの街を走っていた。小さな漁港が見えてきて、魚の腐臭がふいに車内に流れこんだりした。低い屋根の続く街を通りぬけて、ふたりは海辺の松林の中の小さな喫茶店に入った。松林の幹と幹の間に、白く泡だっている海が見える。
 サユリは自分の手に、松男の手を重ねながら云った。
「さあ、あなたはここでは村の有力者の息子でもなければ、地主の跡とりでもない。あなたを監視する村の人はここには居ないのだから、自由にわたしを抱けるのよ」
 しかし、松男には気持ちの昂ぶりがなかった。むしろ胸の名札を失くしてしまった小学生のように、不安で心もとなく、落着かなかった。松男は冷えたコーヒーにちょっと口をつけただけで、またテーブルに戻してしまった。
 ふたたび松男は車を走らせて、K市はこのあたりの観光の中心地だったから、待は人と車で混みあっていた。だが空だけは虚しいほど明るく澄んでいる。松男とサユリは駅前広場に面したレストランに入り、窓ぎわの席に坐った。料理を待ちながら、サユリは古い話を思い出すような口調で話し始めた。
「つまり、あなたは村から逃げて自由を手にしたと同時に、何も持たない名前さえない、孤独な男になってしまったのよ。あなたは自分の村なら、商店街の人たちは父親の顔であなたに声をかけるだろうし、スナックで飲んでいればビールをおごってくれる友だちに出会うかもしれない。でもここではどこの誰かもわからない。いまここを出て街の大通りを歩いていっても、あなたに気づく人も振りむく人も居ない。あなたはあの透明人間になってしまったのよ」
 透明人間か・・・松男はつぶやいた。そう云えば子どもの頃読んだ透明人間の話は、透明になることを望んだ男が透明人間になって生活するうちに、孤独に耐えかねて体を元に戻してくれと哀願する話だった。
 窓の外に眼をやると、低い家並みの街の上に高く青い空が広がっている。森と森が折重なるように続き、重く澱んだ空気のはざまに農家が点在している村とはあまりに違うその南国めいた風景を、松男は異国の街でも見るように眺めた。眼の前にいるサユリもまたいつの間にか瞳の色が金色に変り、見知らぬ異国の女になってしまったような気がした。それほどサユリも店内にいる数人の客もしらじらしい他人の顔をしていて、松男ひとりが取り残されていた。ここでは松男が異邦人だった。
 松男はテーブルの上のサユリの手を見た。細く長い指は、先端に金属片に似た赤い爪がついている。料理が運ばれると、ナイフを握った指はしなやかに動いて肉を切りわけている。松男はその指に、自分や正子の太く短い指の中を流れている赤黒い血とは違う、昆虫の体液のような青い血が流れているのだろうと思った。
 沈みこんでいる松男にサユリは追いうちをかけた。
「帰りましょうよ。あなたはあの村でなければ、いとこのおくさんでなければ駄目な男なのよ」
 帰りの車の中でサユリは云った。
「村のひとたちって、みんな同じ顔をしているのね。目鼻だちはそれぞれ違うのに、びっくりするほど同じ表情をすることがある」
 同じ顔という言葉から、松男には思いだすことがあった。
 松男は何年か前、友人の妹の結婚式に招かれた。その友人の家系は、何代にもわたって近親結婚をくり返していることで村でも有名だった。一族揃って資産家だったから、財産の散逸を防ぐ意味もあったかもしれない。披露宴で松男の前に坐った男はやはり一族の者で、野菜組合の会合などでよく見かける顔だった。その男の顔にはきわだった特徴があった。髪を職人風に短く刈り込み、額は極端に狭く眼も細かった。そして面長だけに、鼻からあごの部分が垂れ下がって見えるほど間のびしていた。だが気がつくと、その男に似た顔が会場のあちこちに見受けられるのだ。白髪の老人、中年の女、そして赤い服の女の子まで、髪型や着ているものは違っても彼らは正確にその特徴ある顔つきを伝えていた。
「何だか気味の悪い話ね」
「その時のことが頭に残っていたせいか、あとで変な夢をみたんだ」
 また松男は誰かの結婚式の披露宴にいた。その時の顔はそれぞれに違っていた。きょうはみんな違う顔だと、松男は安心して酒を飲んでいた。最後に司会者が、「本日はどうも有難うございました」と挨拶して、さっと仮面をとった。それに合わせて全員が仮面をとった。
「仮面の下から、そっくり同じ顔が現れたというわけね」
 カラオケ発表会は一週間後に迫り、正子は毎晩練習に出かけていった。松男が夜半何度目覚めても、隣に寝ているはずの正子は帰っていなかった。そして浅いまどろみのなかで、松男は不思議な夢をみた。
 松男は広大な砂漠のような場所に立っていた。四方の地平線には、やまなみも街も、草木さえも見えなかった。ただ正面の地平線に向かい一本の細い道が曲がりくねりながら伸びていて、先端に黒い点が見える。その道を長い時間かけて歩いてゆくと、ぶどう棚のようなものが見えてきた。まもなく松男は、棚の終りが地平まで続いていそうな巨大なぶどう棚の下に立っていた。だがそれはふどう棚ではなかったのだ。
 棚の下に立って見あげると、無数にぶらさがっているぶどうの房に思えたのは、じつはおびただしい数の胎児だった。棚の上部で複雑に絡みあいながら拡がっている蔓のようなものは、へその緒であろう。網のように伸びているへその緒は、棚の中央の太く白い幹にすべて繋がっているはずだった。
 胎児は村の人たちで、もちろん松男とは顔見知りだった。彼らは背広を着たり、ゴムのズボンをはいたりしていた。裸で交っている夫婦の胎児もいた。松男と正子はさくらんぼのように同じへその緒に繋がっていた。
 正子のカラオケ発表会の日、松男はサユリの部屋にいた。二人は向かい合い無言でコーヒーを飲んでいた。松男にとって決して居心地のよい部屋ではなかったが、松男にはそこだけが正子の歌が聞こえてこない場所のような気がしていた。
 だがやがて松男の脳裏に、正子が公民館の舞台で大袈裟なフリをつけて歌詞をひきずるようにしてうたっている光景が浮かびあがってきた。思わず松男はサユリをソファに押し倒したい衝動に駆られた。しかしその行為が無意味であることも知りすぎていた。松男がサユリを抱いたにしても、密着した皮膚の両側で、それぞれに異質な血が混りあうこともなく別々に対流を続けているだろう。
 松男の耳の底で、正子の歌声はしだいに大きくなりつつあった。歌は最後のフレーズにさしかかり、正子はひび割れた声をわざとらしいほど張りあげていた。